最近、twitterばかりで、ブログを更新していません。
気持ちをそのまま、その場で残すことができるので、便利でついついそちらを優先してしまいます。
それはそれでいいのですが、ぐっと考えをまとめることをしないといけないと感じます。
今年も終わるので、久々にブログを見ていると、自分に迷いがあるのに気付きます。
背負ってきているものが、ドンドン大きくなってきているようです。
自分のことが、自分だけのことではなくなってきているのを感じます。
自分の後ろにはたくさんの者、物がくっついてきています。
このことは、とても喜ばしいことですが、自分の器から溢れて出るほどのものになってきているのです。
大学院を修了した責任、会社の名前がついてくるという責任、リハビリテーションを実施する一人としての責任。
責任を持たないといけないものが、前より増えてきています。
責任は果たせないと、だんだんプレッシャーになり、徐々に課題が増えていきます。
常にデュアルタスクになるのです。
しかも、課題は以前と性質が変わってきてます。
ある一定の期間頑張れば、それで終わるものではなくなってきているのです。
ずっと先があって、区切りがなくなってきています。
というか自分でうまく区切りをつけられていないのかもしれません。
やらないといけないことや、やりたいことはあるのだけど、結果を出せていない自分がいます。
今年は、結果を出せず、課題が残り、すべてが中途半端な年になってしまったように思います。
自分で自分の課題をコントロールできるように、そして、自分をどのように見せていくのかを考えながら、行動していきたいと思います。
2011年12月31日土曜日
2011年11月13日日曜日
臨床力と研究力2
以前同様のテーマでブログを書いてから、どのようにすれば、考えていましたが、少し広がりが出てきました。
臨床と研究、教育というものは、三本柱だと言われ、自分もそうだと感じていました。
しかし、自分が感じていた臨床、研究、教育と言うものは、臨床の立場から見たものだと気付きました。
実は臨床にも臨床から見た臨床があり、研究から見た臨床がある。そして、教育から見た臨床がある。
自分は臨床にいるためにほとんどを臨床からしか見られていませんが、臨床の切り口でも、研究視点から見ることができます。
臨床研究というのは、それに当てはまるように思います。グループ化したり、トレーニングを系統立てたり、それの効果を検証していく。
大きな枠組みで、効果を検証していくと言った印象です。
臨床家による臨床は少し様相が違ってくるように思います。患者さんや利用者さん一人一人の病態をみて、それに対して仮説を立て、治療を検証していく。
より、個別性が強いと思います。
研究にするのであれば、シングルケースとなるのでしょう。
シングルケースをたくさん考察していき、シングルケース同士を比較していく。
このような研究が臨床家による研究なのでしょうか。
こんな論文が出てくるとワクワクするのではないでしょうか。
勿論、臨床研究のようなグループごとの研究も必要でしょうが、それだけでは、本当のリハビリテーションの極意は表現できないように思います。
直接とらえると、これすれば、みんなが良い方向に行きますよと言うことになる。
それって違うのではないかと私は感じます。
これからはシングルケースを科学的に示していく時代になるのではないかと思います。
一つの研究の価値と一つのシングルケーススタディーの価値が対等になる時代になればいいなあと思います。
基礎的な研究も臨床の仮説をより進化させたり、証明するためには必要な研究です。これは研究中の研究というのでしょうか。
ここを考えていくことでも、リハビリテーションを前へ進めていけるのではないでしょうか。
教育に関しては、全く無知です。臨床で、実習生を教えるくらいしか、私はしたことがないので、何とも言えませんが、おそらく場所や立場によって、教育の仕方は変わるのではないかと思います。
このように、臨床の中でも様々な考え、研究でも、教育でもそのように様々に細分化できるように思います。
それぞれが大切で、順番を決められないですが、自分の立ち位置を知ることが重要に思います。
自分は臨床家と言う立場から研究をしていくのか、研究者としての立場から臨床をしていくのかでは大きな違いがあります。
人は思考をそれによって、変化していくことができますが、本当の核となる所は変えられません。
いくら器用な人でも、使い分けはなかなか難しいでしょう。
なので、自分の核がどこにあるのかを知らないといけないように感じます。
そうすれば、自分をある程度制御できるのではないかと思います。
これを間違えれば、とんでもないことになってしまいます。
私は修士で研究が知らない間にメインになっていたため、知らない間に、臨床家の臨床というものを失いかけていました。
どうしても当てはめようとしてしまう。
自分の研究と結び付けたり、知見と結び付けようとしてしまっていました。
純粋に今ある、現在起きている現象というものをとらえることが難しくなっていました。
自分が未熟だからそうなのかもしれません。
真の研究者というのは、臨床も見られてしまうのかもしれないかもしれませんが。
だから自分は臨床は純粋に現象を見て、とらえて、じっくり患者さんと向き合おうと思いました。
臨床は臨床のスキルが必要となるのです。
研究は研究で綿密な組み立てが重要となります。
一つのことをとことん追求し、一つずつ詰めていく作業が必要となります。
飛躍し過ぎない。
これも純粋に現象を解釈しないといけません。
なんか話してると似てる気がしますが、スキルとしては全く違うように感じます。
私はまだ真髄が分かりませんが、「研究は1つの物事を明らかにしていく過程であり、臨床は一つの物事を多面的に解釈していく過程」だと教しえて頂きました。
これが、正しいのかどうかはまだ答えが出ていません。
今の自分に言えることは自分の核の考えを知ること、つまり、立ち位置を知ることが、臨床と研究の両方をとらえていくための一つの過程になるのではないかと思いました。
今の私には研究と臨床を全く別物としてとらえていくことしかできません。
別れることで、新しいものが生まれることに期待しています。
研究と臨床の両方を中間的にやっていくと言うことは二つのことをバランスよくやることとは、また違うように感じます。
早くその世界を見てみたいです。
臨床と研究、教育というものは、三本柱だと言われ、自分もそうだと感じていました。
しかし、自分が感じていた臨床、研究、教育と言うものは、臨床の立場から見たものだと気付きました。
実は臨床にも臨床から見た臨床があり、研究から見た臨床がある。そして、教育から見た臨床がある。
自分は臨床にいるためにほとんどを臨床からしか見られていませんが、臨床の切り口でも、研究視点から見ることができます。
臨床研究というのは、それに当てはまるように思います。グループ化したり、トレーニングを系統立てたり、それの効果を検証していく。
大きな枠組みで、効果を検証していくと言った印象です。
臨床家による臨床は少し様相が違ってくるように思います。患者さんや利用者さん一人一人の病態をみて、それに対して仮説を立て、治療を検証していく。
より、個別性が強いと思います。
研究にするのであれば、シングルケースとなるのでしょう。
シングルケースをたくさん考察していき、シングルケース同士を比較していく。
このような研究が臨床家による研究なのでしょうか。
こんな論文が出てくるとワクワクするのではないでしょうか。
勿論、臨床研究のようなグループごとの研究も必要でしょうが、それだけでは、本当のリハビリテーションの極意は表現できないように思います。
直接とらえると、これすれば、みんなが良い方向に行きますよと言うことになる。
それって違うのではないかと私は感じます。
これからはシングルケースを科学的に示していく時代になるのではないかと思います。
一つの研究の価値と一つのシングルケーススタディーの価値が対等になる時代になればいいなあと思います。
基礎的な研究も臨床の仮説をより進化させたり、証明するためには必要な研究です。これは研究中の研究というのでしょうか。
ここを考えていくことでも、リハビリテーションを前へ進めていけるのではないでしょうか。
教育に関しては、全く無知です。臨床で、実習生を教えるくらいしか、私はしたことがないので、何とも言えませんが、おそらく場所や立場によって、教育の仕方は変わるのではないかと思います。
このように、臨床の中でも様々な考え、研究でも、教育でもそのように様々に細分化できるように思います。
それぞれが大切で、順番を決められないですが、自分の立ち位置を知ることが重要に思います。
自分は臨床家と言う立場から研究をしていくのか、研究者としての立場から臨床をしていくのかでは大きな違いがあります。
人は思考をそれによって、変化していくことができますが、本当の核となる所は変えられません。
いくら器用な人でも、使い分けはなかなか難しいでしょう。
なので、自分の核がどこにあるのかを知らないといけないように感じます。
そうすれば、自分をある程度制御できるのではないかと思います。
これを間違えれば、とんでもないことになってしまいます。
私は修士で研究が知らない間にメインになっていたため、知らない間に、臨床家の臨床というものを失いかけていました。
どうしても当てはめようとしてしまう。
自分の研究と結び付けたり、知見と結び付けようとしてしまっていました。
純粋に今ある、現在起きている現象というものをとらえることが難しくなっていました。
自分が未熟だからそうなのかもしれません。
真の研究者というのは、臨床も見られてしまうのかもしれないかもしれませんが。
だから自分は臨床は純粋に現象を見て、とらえて、じっくり患者さんと向き合おうと思いました。
臨床は臨床のスキルが必要となるのです。
研究は研究で綿密な組み立てが重要となります。
一つのことをとことん追求し、一つずつ詰めていく作業が必要となります。
飛躍し過ぎない。
これも純粋に現象を解釈しないといけません。
なんか話してると似てる気がしますが、スキルとしては全く違うように感じます。
私はまだ真髄が分かりませんが、「研究は1つの物事を明らかにしていく過程であり、臨床は一つの物事を多面的に解釈していく過程」だと教しえて頂きました。
これが、正しいのかどうかはまだ答えが出ていません。
今の自分に言えることは自分の核の考えを知ること、つまり、立ち位置を知ることが、臨床と研究の両方をとらえていくための一つの過程になるのではないかと思いました。
今の私には研究と臨床を全く別物としてとらえていくことしかできません。
別れることで、新しいものが生まれることに期待しています。
研究と臨床の両方を中間的にやっていくと言うことは二つのことをバランスよくやることとは、また違うように感じます。
早くその世界を見てみたいです。
2011年9月30日金曜日
新生活のスタート
久々のブログです。
9月いっぱいは、引っ越しの準備などでバタバタし、何もできない状態でした。
やっと引っ越しが落ち着きました。
まだ、ネット環境が整っていないので、慣れない携帯から打っています。
自分で色々と考えることがあり、それも記録として残しておきたいと考えています。
ネット環境が整い次第まとまったことを書きます。
携帯は打ちにくいので、やはりまとまった文章を書きにくいですね。
パソコンから打たしてもらいます。
9月いっぱいは、引っ越しの準備などでバタバタし、何もできない状態でした。
やっと引っ越しが落ち着きました。
まだ、ネット環境が整っていないので、慣れない携帯から打っています。
自分で色々と考えることがあり、それも記録として残しておきたいと考えています。
ネット環境が整い次第まとまったことを書きます。
携帯は打ちにくいので、やはりまとまった文章を書きにくいですね。
パソコンから打たしてもらいます。
2011年9月4日日曜日
患者さんと繋がるということ
おとといに、最後の出勤を終了してきました。
とうとう10月から新しい職場です。
これからは有給消化となり、社会人で初めての長期休暇です。
大学院を修了し、臨床にも本腰を入れ、頭がパンパンになってきていたので、丁度良い休暇のように思います。
昨日は日本認知神経リハビリテーション学会学術集会に参加してきました。
一日だけでしたが、非常に有意義な学会でした。
リハビリテーションで、一番大切なことは、患者さんとセラピストが繋がっていることだと感じました。
まさに二人三脚、セラピスト側が与えるだけでは治療としては弱いのです。
セラピストが与えるだけ、患者さんは受け取って行うだけでは治療効果が薄くなってしまう。
そうではなく、セラピストと患者さんがどのようにして、患者さんの身体を変化させていけるのか、自己の行為を変化させていけるのかを試行錯誤していく必要があるのです。
これは認知神経リハビリテーションだけでのことではないのです。
リハビリテーションすべてにおけるように思います。
患者さんが何に気をつけて、生活をしていくのか、セラピーを受けるのかということは、とても大切です。
そして、それを患者さんにしてもらうためには、セラピストが患者さんと繋がっていないといけません。
繋がっているということは、患者さんとセラピストの関係に信頼があるということです。
最近、患者さんとの関係性が大切なことを再確認することが多い。
いや、詳細に言えば、感覚が変わってきている。
今までの私は、非常に丁寧ではなかったし、治療と言う行為に重点を置き過ぎて、その前提条件を置き去りにしていた。
患者さんとどのような方向性に向かっていくかを話すことはもっとも重要。
セラピストと言う視点と、一般的にどのように話すのか、つまり患者さんの視点で話すことが重要である。
今まではセラピスト視点しかなかったように感じる。
こう言えば、とても簡単なことができてなかったのだと感じるが、気付くのに時間がかかった。
これからの私のフィールドは、そのことが非常に重要になり、長く関わっていくことができるので、より一層そのことを大切にし、患者さんと繋がりを持って、治療を進めていきたいと思う。
とうとう10月から新しい職場です。
これからは有給消化となり、社会人で初めての長期休暇です。
大学院を修了し、臨床にも本腰を入れ、頭がパンパンになってきていたので、丁度良い休暇のように思います。
昨日は日本認知神経リハビリテーション学会学術集会に参加してきました。
一日だけでしたが、非常に有意義な学会でした。
リハビリテーションで、一番大切なことは、患者さんとセラピストが繋がっていることだと感じました。
まさに二人三脚、セラピスト側が与えるだけでは治療としては弱いのです。
セラピストが与えるだけ、患者さんは受け取って行うだけでは治療効果が薄くなってしまう。
そうではなく、セラピストと患者さんがどのようにして、患者さんの身体を変化させていけるのか、自己の行為を変化させていけるのかを試行錯誤していく必要があるのです。
これは認知神経リハビリテーションだけでのことではないのです。
リハビリテーションすべてにおけるように思います。
患者さんが何に気をつけて、生活をしていくのか、セラピーを受けるのかということは、とても大切です。
そして、それを患者さんにしてもらうためには、セラピストが患者さんと繋がっていないといけません。
繋がっているということは、患者さんとセラピストの関係に信頼があるということです。
最近、患者さんとの関係性が大切なことを再確認することが多い。
いや、詳細に言えば、感覚が変わってきている。
今までの私は、非常に丁寧ではなかったし、治療と言う行為に重点を置き過ぎて、その前提条件を置き去りにしていた。
患者さんとどのような方向性に向かっていくかを話すことはもっとも重要。
セラピストと言う視点と、一般的にどのように話すのか、つまり患者さんの視点で話すことが重要である。
今まではセラピスト視点しかなかったように感じる。
こう言えば、とても簡単なことができてなかったのだと感じるが、気付くのに時間がかかった。
これからの私のフィールドは、そのことが非常に重要になり、長く関わっていくことができるので、より一層そのことを大切にし、患者さんと繋がりを持って、治療を進めていきたいと思う。
2011年8月16日火曜日
オーバーヒート
ここ数日間ずっと背中が痛い。
身体が痛いと深く考えることができない。
何にもしなくても痛いのは辛い。
やることもたくさんある。
自分のこと、人のこと、臨床のこと、研究のこと。
キャパオーバーなんだろうか。
考えないといけないと思う程、ちゃんと考えられていない。
やらないといけない順も決められていないし、どれから手をつけたらいいかも分からないから、結局、全部手つかずになってしまう。
それでも、一日一日は過ぎていってしまう。
身体も気持ちも、今がピーク。
ちゃんと整理する時間を作ろう。
身体が痛いと深く考えることができない。
何にもしなくても痛いのは辛い。
やることもたくさんある。
自分のこと、人のこと、臨床のこと、研究のこと。
キャパオーバーなんだろうか。
考えないといけないと思う程、ちゃんと考えられていない。
やらないといけない順も決められていないし、どれから手をつけたらいいかも分からないから、結局、全部手つかずになってしまう。
それでも、一日一日は過ぎていってしまう。
身体も気持ちも、今がピーク。
ちゃんと整理する時間を作ろう。
2011年7月18日月曜日
臨床での教育のあり方
この前に実習生の指導のことで少しだけ相談にのらせてもらいました。
話している間に、自分の臨床実習指導に対する以前の考え方と今の考え方に違いがあることに、気付かされました。
臨床指導する際によくレポートを用いられますが、レポートを指導する際に、なんだが、レポートというテストに学生さんが解答していて、それの答え合わせをしているような錯覚に陥ります。
これだと、バイザーの指導、つまりレポートの修正がすべて正しいようなことになってしまうように思います。
よく、このようなケースで思うことは、自分の考え方を全部押しつけてしまって、学生さんの考えが出てこないとか、言ったのに直らないということに陥ってしまいます。
まず前者では、レポートをテストのように考えてしまうことに問題があります。
レポートがテストであれば、バイザーが持っている考え方のみが答えになってしまい、どうしてもバイザー自体がその方向に誘導せざる得なくなってしまいます。
そうすれば、学生さんの考え方を導くことは難しくなってしまいます。
また、逆に学生さんの意見を尊重し過ぎると、バイザーの考え方と違う方向に行ってしまい、バイザーは治療に口を出せずに、放棄した形になる。
これは確実にバイザーが自分で答えを持っていることに問題があり、レポートを一つの問題、テストとしてとらえていることに最大の原因があるように思います。
また後者でも、レポートを問題、テストとしてとらえていることに問題があります。
バイザーは答えを持っていて、その答えに行き着くように誘導していきますが、その過程を学生さんは同じようにふんでいないのです。
一つの問題点を出してくる時にでも、確実に思考過程はセラピストの方がより多い過程を通ってきています。
だから学生さんのレポートに書けていないことは、その思考過程をふんでいないことになります。
その思考過程を一緒に考えずに、テストの解答のように物事を言ってしまっても、学生さんは意味が理解できません。
意味が分からないと記憶に残りませんし、なぜ、バイザーがそのことを強調するか、全く分かりません。
そして、解答を作る時、つまりレポートを作成する際に、バイザーの意図通りに直せない、もしくは、加えてこないことが生じるのです。
しかも症例患者レポートの場合、一つ一つの問題ではなく、たくさんの問題がすべて、まとまった形になり、治療に結びつけないといけません。
その過程にはたくさんの思考過程がともないます。
そうなると一つ道を間違えば、とんでもなくバイザーとかけ離れた解答になるのです。
この二つの問題は、確実にレポートをテスト化していることに共通しています。
それは意識的ではないにしろ、潜在的にあるものなのでしょう。
実際にレポートが出来ない者の理由としては、バイザーの考え方と合わないレポートを作成していることが多いように感じます。
そもそもレポートとは考え方を具現化し、それに対して、バイザーの考え方を加えながら、より患者さんの治療に役立てると言うものです。
だから解答などないはずです。
セラピスト自体の持っている解答もやはり、仮説であり、間違えもあり、正解もあり、そして、より詳細を知る必要がある部分もあるはずです。
また、見落としている部分もあるでしょう。
そうなると、このようなテスト型レポートでは全く役に立ちません。
逆に、バイザーもレポートを書いてくる必要があるでしょう。
それをお互い見せあい、統合していくことこそが、患者さんの治療に繋がっていくことになるのではないでしょうか。
そうすれば、思考過程の手順もより学生さんは分かります。
ただ、それはセラピストにとって、非常に大変な労力が必要となるでしょう。
そんな回りくどいことをしなくても、評価しながら、治療しながら、患者さんを共に診ることができるのではないでしょうか。
治療の仮説を吟味する場所はその場所にありますし、すぐに評価できます。
そして、正しい解答がないのであれば、まずは自分のセラピストとしての経験から導かれる思考過程を学生さんに伝える必要があります。
学生さんの思考過程は決して多くの数を踏んでいません。
そのようにセラピストが思考過程の数の多さを示すことがまずは、学生さんの成長に結び付けられるのではないでしょうか。
そして、なぜその思考過程に至ったかを話すべきではないでしょうか。
そうすることによって、学生さんはある一定の思考方法が分かります。
しかも臨床の場で、身体で感じることができる。
身体で感じたことと、思考の過程を指導されることによって、学生さんは、理学療法の思考過程を学習することができる。
そうすれば、レポートに書きなさいと言ったことが書かれないということはない。
思考と、実際の行為がマッチングしていて、意味も理解できるから。
しかもバイザーの思考過程を学んでいくうちに、自発的にバイザーと同じ見方をしながら、違うことも見つけられるようになる。
それは学生さんが、バイザーとは違った経験をしていますし、しかも固定概念がないことから新しい視点が得られる。
それをバイザーが経験から解釈し、学生さんと話し合うことで、新たな問題点や治療の進め方が生じる。
そうすれば、お互いが治療に対しての解答を出していき、ディスカッションになるのではないでしょうか。
私が言いたかったことは、学生さんと共に学んでいくこと、治療していくことの大切さです。
学生さんが自分と同じ考えにならないのは当たり前のことです。
だからこそ、場数を踏んだ者が、語らなければ、学生さんは、分かりません。
だから、まずは、自分の経験をすべて伝える必要があるのです。
でも、それは決して正しい答えではありません。
正しい答えは結果でしか言えません。
だからないと言って等しいのです。
すべてバイザーが伝えた上で、学生さんがさらに考える。
そして、バイザーがさらに考え、治療に反映していくことで、どちらも成長でき、患者さんもより改善に向けられるように思います。
だから私は、いつも学生さんに、
「患者さんのことを見させてもらうのだから、患者さんのプラスになるように自分は考えないといけないのですよ。だから一緒に考えて、気付いたことを話し合おう。」
と言います。
話している間に、自分の臨床実習指導に対する以前の考え方と今の考え方に違いがあることに、気付かされました。
臨床指導する際によくレポートを用いられますが、レポートを指導する際に、なんだが、レポートというテストに学生さんが解答していて、それの答え合わせをしているような錯覚に陥ります。
これだと、バイザーの指導、つまりレポートの修正がすべて正しいようなことになってしまうように思います。
よく、このようなケースで思うことは、自分の考え方を全部押しつけてしまって、学生さんの考えが出てこないとか、言ったのに直らないということに陥ってしまいます。
まず前者では、レポートをテストのように考えてしまうことに問題があります。
レポートがテストであれば、バイザーが持っている考え方のみが答えになってしまい、どうしてもバイザー自体がその方向に誘導せざる得なくなってしまいます。
そうすれば、学生さんの考え方を導くことは難しくなってしまいます。
また、逆に学生さんの意見を尊重し過ぎると、バイザーの考え方と違う方向に行ってしまい、バイザーは治療に口を出せずに、放棄した形になる。
これは確実にバイザーが自分で答えを持っていることに問題があり、レポートを一つの問題、テストとしてとらえていることに最大の原因があるように思います。
また後者でも、レポートを問題、テストとしてとらえていることに問題があります。
バイザーは答えを持っていて、その答えに行き着くように誘導していきますが、その過程を学生さんは同じようにふんでいないのです。
一つの問題点を出してくる時にでも、確実に思考過程はセラピストの方がより多い過程を通ってきています。
だから学生さんのレポートに書けていないことは、その思考過程をふんでいないことになります。
その思考過程を一緒に考えずに、テストの解答のように物事を言ってしまっても、学生さんは意味が理解できません。
意味が分からないと記憶に残りませんし、なぜ、バイザーがそのことを強調するか、全く分かりません。
そして、解答を作る時、つまりレポートを作成する際に、バイザーの意図通りに直せない、もしくは、加えてこないことが生じるのです。
しかも症例患者レポートの場合、一つ一つの問題ではなく、たくさんの問題がすべて、まとまった形になり、治療に結びつけないといけません。
その過程にはたくさんの思考過程がともないます。
そうなると一つ道を間違えば、とんでもなくバイザーとかけ離れた解答になるのです。
この二つの問題は、確実にレポートをテスト化していることに共通しています。
それは意識的ではないにしろ、潜在的にあるものなのでしょう。
実際にレポートが出来ない者の理由としては、バイザーの考え方と合わないレポートを作成していることが多いように感じます。
そもそもレポートとは考え方を具現化し、それに対して、バイザーの考え方を加えながら、より患者さんの治療に役立てると言うものです。
だから解答などないはずです。
セラピスト自体の持っている解答もやはり、仮説であり、間違えもあり、正解もあり、そして、より詳細を知る必要がある部分もあるはずです。
また、見落としている部分もあるでしょう。
そうなると、このようなテスト型レポートでは全く役に立ちません。
逆に、バイザーもレポートを書いてくる必要があるでしょう。
それをお互い見せあい、統合していくことこそが、患者さんの治療に繋がっていくことになるのではないでしょうか。
そうすれば、思考過程の手順もより学生さんは分かります。
ただ、それはセラピストにとって、非常に大変な労力が必要となるでしょう。
そんな回りくどいことをしなくても、評価しながら、治療しながら、患者さんを共に診ることができるのではないでしょうか。
治療の仮説を吟味する場所はその場所にありますし、すぐに評価できます。
そして、正しい解答がないのであれば、まずは自分のセラピストとしての経験から導かれる思考過程を学生さんに伝える必要があります。
学生さんの思考過程は決して多くの数を踏んでいません。
そのようにセラピストが思考過程の数の多さを示すことがまずは、学生さんの成長に結び付けられるのではないでしょうか。
そして、なぜその思考過程に至ったかを話すべきではないでしょうか。
そうすることによって、学生さんはある一定の思考方法が分かります。
しかも臨床の場で、身体で感じることができる。
身体で感じたことと、思考の過程を指導されることによって、学生さんは、理学療法の思考過程を学習することができる。
そうすれば、レポートに書きなさいと言ったことが書かれないということはない。
思考と、実際の行為がマッチングしていて、意味も理解できるから。
しかもバイザーの思考過程を学んでいくうちに、自発的にバイザーと同じ見方をしながら、違うことも見つけられるようになる。
それは学生さんが、バイザーとは違った経験をしていますし、しかも固定概念がないことから新しい視点が得られる。
それをバイザーが経験から解釈し、学生さんと話し合うことで、新たな問題点や治療の進め方が生じる。
そうすれば、お互いが治療に対しての解答を出していき、ディスカッションになるのではないでしょうか。
私が言いたかったことは、学生さんと共に学んでいくこと、治療していくことの大切さです。
学生さんが自分と同じ考えにならないのは当たり前のことです。
だからこそ、場数を踏んだ者が、語らなければ、学生さんは、分かりません。
だから、まずは、自分の経験をすべて伝える必要があるのです。
でも、それは決して正しい答えではありません。
正しい答えは結果でしか言えません。
だからないと言って等しいのです。
すべてバイザーが伝えた上で、学生さんがさらに考える。
そして、バイザーがさらに考え、治療に反映していくことで、どちらも成長でき、患者さんもより改善に向けられるように思います。
だから私は、いつも学生さんに、
「患者さんのことを見させてもらうのだから、患者さんのプラスになるように自分は考えないといけないのですよ。だから一緒に考えて、気付いたことを話し合おう。」
と言います。
2011年7月5日火曜日
学習者としての経験
今日、とうとう運転免許を取得しました。
4月から始まって、3か月、時間を作るのが大変でしたが、良い経験になりました。
大学院、教習所と学校と言う名のものを2つも卒業しました。
運転を習うのに感じたこと、それは運動を学習していく過程です。
運動を新しく獲得していく過程を、実感できたのは非常に自分の治療にとっても有益でした。
よくよく感じるのは、注意には容量があること。
運転初期には、注意を分配どころか、自分のハンドルが車を動かしている感覚すらありません。
そのため、動きの予測ができず、恐怖心が強く、車のエンジンの音すら聞こえない状態。
その頃に言われたことは、「道に自分や車を向けていくようにしなさい」、「視線を動く方向に向けていきなさい」ということ。
移動が視線によって導かれること、視覚の重要性を再認識しました。
そして、自分のハンドルの感覚と視覚をマッチングさせる作業でした。
ハンドルが慣れた頃には、速度を出していく作業。
これは速度と自分の足部の圧のマッチングではないかと思います。
しかし、速度を出すのは怖かった。
怖くなくなってきたのは、自分が動かしている車を外から見たイメージができたぐらいでした。
何か運動イメージと視覚イメージは車を動かすこと、つまりダイナミックタッチには必要なのではないかとふと思いました。
しかし、今思うと、教官には注意をコントロールされていたように思います。まずはハンドル操作と車の動きの関係、その次は速度と圧の関係。
いつの間にやら、注意しなくてもハンドル操作ができていたように思います。
そうすると今まで、パニックだった状態から脱出していました。
そして、次は速度と圧みたいに次々注意する場所を変化させていきました。
これは、一つずつの運動を視覚を利用して、誤差学習しているのではないかと思いました。
その後、できたことを一緒にしていくような作業を学習したように感じます。
今はここに注意して、次はここみたいな感じですかね。
順序を覚えていくみたいな感じです。
人によって、差はあると思うのですが、そのような過程を経ているように思います。
学習者は無理なことを言っても、混乱状態の際には、何も注意できないし、覚えられないということははっきり言えます。
患者さんも受傷したり、発症した当初はそのような感覚なのではないでしょうか。
身体が思うように動かない。
違和感を感じる。
自分の身体でないようだ。
など。
そのような状態で、難しい課題をしても、混乱を助長するだけではないでしょうか。
初めて車に乗った人に外に出て、まだ、ハンドルも操作できないのに、人に気をつけて運転しないと駄目と言っているのと同じではないでしょうか。
リハビリテーションを学習ととらえるのであれば、容量を考える必要があるのではないかと思います。
よく言われている機能乖離を助長してしまうことと同じではないでしょうか。
機能乖離の解除には、弱い感覚が必要と言われています。
弱い感覚とは、その対象者が受容できる範囲と言う意味ではないかと思います。
学習者として経験できたことは非常に感慨深いことだと感じました。
まだまだ、運転で学んだことはありますが、また気が向いて、思い浮かぶ時に書いていこうと思います。
4月から始まって、3か月、時間を作るのが大変でしたが、良い経験になりました。
大学院、教習所と学校と言う名のものを2つも卒業しました。
運転を習うのに感じたこと、それは運動を学習していく過程です。
運動を新しく獲得していく過程を、実感できたのは非常に自分の治療にとっても有益でした。
よくよく感じるのは、注意には容量があること。
運転初期には、注意を分配どころか、自分のハンドルが車を動かしている感覚すらありません。
そのため、動きの予測ができず、恐怖心が強く、車のエンジンの音すら聞こえない状態。
その頃に言われたことは、「道に自分や車を向けていくようにしなさい」、「視線を動く方向に向けていきなさい」ということ。
移動が視線によって導かれること、視覚の重要性を再認識しました。
そして、自分のハンドルの感覚と視覚をマッチングさせる作業でした。
ハンドルが慣れた頃には、速度を出していく作業。
これは速度と自分の足部の圧のマッチングではないかと思います。
しかし、速度を出すのは怖かった。
怖くなくなってきたのは、自分が動かしている車を外から見たイメージができたぐらいでした。
何か運動イメージと視覚イメージは車を動かすこと、つまりダイナミックタッチには必要なのではないかとふと思いました。
しかし、今思うと、教官には注意をコントロールされていたように思います。まずはハンドル操作と車の動きの関係、その次は速度と圧の関係。
いつの間にやら、注意しなくてもハンドル操作ができていたように思います。
そうすると今まで、パニックだった状態から脱出していました。
そして、次は速度と圧みたいに次々注意する場所を変化させていきました。
これは、一つずつの運動を視覚を利用して、誤差学習しているのではないかと思いました。
その後、できたことを一緒にしていくような作業を学習したように感じます。
今はここに注意して、次はここみたいな感じですかね。
順序を覚えていくみたいな感じです。
人によって、差はあると思うのですが、そのような過程を経ているように思います。
学習者は無理なことを言っても、混乱状態の際には、何も注意できないし、覚えられないということははっきり言えます。
患者さんも受傷したり、発症した当初はそのような感覚なのではないでしょうか。
身体が思うように動かない。
違和感を感じる。
自分の身体でないようだ。
など。
そのような状態で、難しい課題をしても、混乱を助長するだけではないでしょうか。
初めて車に乗った人に外に出て、まだ、ハンドルも操作できないのに、人に気をつけて運転しないと駄目と言っているのと同じではないでしょうか。
リハビリテーションを学習ととらえるのであれば、容量を考える必要があるのではないかと思います。
よく言われている機能乖離を助長してしまうことと同じではないでしょうか。
機能乖離の解除には、弱い感覚が必要と言われています。
弱い感覚とは、その対象者が受容できる範囲と言う意味ではないかと思います。
学習者として経験できたことは非常に感慨深いことだと感じました。
まだまだ、運転で学んだことはありますが、また気が向いて、思い浮かぶ時に書いていこうと思います。
2011年6月2日木曜日
学会発表
全国理学療法学術大会へ参加してきました。
自分の発表は2日目ですが、気が気でなかったです。
結局、発表は緊張し過ぎて、棒読み、めちゃくちゃ速く話してしまいました。
多くのご質問を頂いたのにも関わらず、しっかり返答できず。
自分の課題の一つとして、人に自分の考えをしっかり伝えることがあります。
それも自分の仕事です。
どのように人に伝えるか。
臨床でも必要となってくる技術。
自分の思いは人に伝わらないと、自分の思いのまま。
考えを共有するためには、言葉にしないといけない。
特に学術的なことは、言葉は命であると思う。
一言一言を大切に話さないといけない。
しかし、自分の実験の先行研究をやっておられる先生の研究室の方々と話せたことは、自分にめちゃくちゃプラスになりました。
もっと勉強しないといけないし、厳密に計画を立てないといけないと身に染みました。
演題発表を聞きましたが、流暢に話されるし、ディスカッションも聞いていて面白い。
発展性がある質問が多くされていた。
自分もああいう風に話したいと思うし、質問もできるようになりたい。
悔む所が多かった学会でしたが、最初の一歩として、ポジティブにとらえようと思います。
至らない所はたくさんある。
逆にそれは直せる可能性があるということ。
ネガティブな気持ちをポジティブに変えて、原動力に変えよう。
自分の発表は2日目ですが、気が気でなかったです。
結局、発表は緊張し過ぎて、棒読み、めちゃくちゃ速く話してしまいました。
多くのご質問を頂いたのにも関わらず、しっかり返答できず。
自分の課題の一つとして、人に自分の考えをしっかり伝えることがあります。
それも自分の仕事です。
どのように人に伝えるか。
臨床でも必要となってくる技術。
自分の思いは人に伝わらないと、自分の思いのまま。
考えを共有するためには、言葉にしないといけない。
特に学術的なことは、言葉は命であると思う。
一言一言を大切に話さないといけない。
しかし、自分の実験の先行研究をやっておられる先生の研究室の方々と話せたことは、自分にめちゃくちゃプラスになりました。
もっと勉強しないといけないし、厳密に計画を立てないといけないと身に染みました。
演題発表を聞きましたが、流暢に話されるし、ディスカッションも聞いていて面白い。
発展性がある質問が多くされていた。
自分もああいう風に話したいと思うし、質問もできるようになりたい。
悔む所が多かった学会でしたが、最初の一歩として、ポジティブにとらえようと思います。
至らない所はたくさんある。
逆にそれは直せる可能性があるということ。
ネガティブな気持ちをポジティブに変えて、原動力に変えよう。
2011年5月25日水曜日
書きたいこと
書きたいことがたくさんあります。
大学院を修了してからのこの何ヶ月間で自分の考え方が色々変わる。
学ぶことも急激に増えている。
でも色々しんどいので、書くのがしんどい。
でもたくさん自分に残さないといけない思いはある。
ちゃんと覚えていたら、色々と落ち着いてから書こう。
心を緊張から解放したい。
大学院を修了してからのこの何ヶ月間で自分の考え方が色々変わる。
学ぶことも急激に増えている。
でも色々しんどいので、書くのがしんどい。
でもたくさん自分に残さないといけない思いはある。
ちゃんと覚えていたら、色々と落ち着いてから書こう。
心を緊張から解放したい。
2011年5月3日火曜日
骨盤、股関節の機能特性
最近、臨床で考えていることの一つとして、股関節、骨盤の機能について考えたことをまとめておこうと思います。
股関節や骨盤の機能特性として、水平性や方向性などを認知運動療法ではよくあげられますが、骨盤、股関節というのは下肢を連結させるために足部に対して押しつける力を作る器官でもあるのです。
石井慎一郎先生の話によく出てきますが、ブロックを積み上げたモデルで、股関節が伸展モーメントを作り出し、荷重を接地面に伝える話です。
詳細は石井先生の文献を調べてみて下さい。
そのように考えると、骨盤は荷重を足部へ移す機能があるということです。つまり体幹の重さによる圧を足部へ移動させる機能があるということです。
これは立ち上がりの際を考えると非常に分かりやすくなります。
端座位では、支持面が臀部と足底になります。この際には、体幹の重さによる圧を受ける場所は、ほとんど臀部になります。
そしてこの臀部の圧の移動を作り出しているのが、骨盤、股関節となるのです。
体幹の重さから生じる圧を臀部から徐々に足部へ移動していく特性を骨盤や股関節が担っているのです。
ということは骨盤に求めることは水平性などだけでは、不足してしまうのです。
圧を作り出し、変化させ、それを荷重面に伝えるという機能も必要となるのです。
認知運動療法の課題で、臀部へのクッション課題が行われていることを聞きますが、この機能特性の獲得を目指しているのではないかと最近考えています。
また、股関節の動きと、足底圧との関係性を作るような課題も重要となってくると思います。
自分で治療している感覚だと、立ち上がりがそのような課題で変化すると、歩行時の立脚期にまで変化を及ぼすことが見られます。
これはおそらく、石井先生の言われている股関節が伸展モーメントを作り、荷重を接地面に伝える機能を獲得しているために、歩行にまで影響するのではないかと思います。
小児でも歩行を開始する前には、たくさんの準備をしていきます。
急に歩き出すわけではなく、歩くための機能を他の動作で、徐々に獲得し、それが結び付いた時に歩き出すのではないかと思います。
なので、歩行の準備として必要な機能特性を考えていくことと、歩行のどのような特性が、どの動作に内在しているかを考えていく必要もあるのではないでしょうか。
股関節や骨盤の機能特性として、水平性や方向性などを認知運動療法ではよくあげられますが、骨盤、股関節というのは下肢を連結させるために足部に対して押しつける力を作る器官でもあるのです。
石井慎一郎先生の話によく出てきますが、ブロックを積み上げたモデルで、股関節が伸展モーメントを作り出し、荷重を接地面に伝える話です。
詳細は石井先生の文献を調べてみて下さい。
そのように考えると、骨盤は荷重を足部へ移す機能があるということです。つまり体幹の重さによる圧を足部へ移動させる機能があるということです。
これは立ち上がりの際を考えると非常に分かりやすくなります。
端座位では、支持面が臀部と足底になります。この際には、体幹の重さによる圧を受ける場所は、ほとんど臀部になります。
そしてこの臀部の圧の移動を作り出しているのが、骨盤、股関節となるのです。
体幹の重さから生じる圧を臀部から徐々に足部へ移動していく特性を骨盤や股関節が担っているのです。
ということは骨盤に求めることは水平性などだけでは、不足してしまうのです。
圧を作り出し、変化させ、それを荷重面に伝えるという機能も必要となるのです。
認知運動療法の課題で、臀部へのクッション課題が行われていることを聞きますが、この機能特性の獲得を目指しているのではないかと最近考えています。
また、股関節の動きと、足底圧との関係性を作るような課題も重要となってくると思います。
自分で治療している感覚だと、立ち上がりがそのような課題で変化すると、歩行時の立脚期にまで変化を及ぼすことが見られます。
これはおそらく、石井先生の言われている股関節が伸展モーメントを作り、荷重を接地面に伝える機能を獲得しているために、歩行にまで影響するのではないかと思います。
小児でも歩行を開始する前には、たくさんの準備をしていきます。
急に歩き出すわけではなく、歩くための機能を他の動作で、徐々に獲得し、それが結び付いた時に歩き出すのではないかと思います。
なので、歩行の準備として必要な機能特性を考えていくことと、歩行のどのような特性が、どの動作に内在しているかを考えていく必要もあるのではないでしょうか。
臨床力と研究力
かなり久々に書きます。
この空白の間に色々とあり過ぎて、よく思い出せません。
あまり長い文章を書く気になれなかったということが一つあると思います。
そしてスタンスを急激に変えたということもあるのでしょう。
臨床と研究を両立することの難しさをこの2カ月ぐらいで実感しています。
自分の問題なのだとは思います。
キャパオーバーなのか、ただの怠けなのかは、自分でもよく分かりません。
やはり、臨床にぐっと力を入れようと思うと、研究のことを考える時間は大幅に減ります。
それに疲労感が強い。
こういう風に書くと、ただの言い訳の羅列ですね。
一つの物事を二つの視点で見られるようになっていかないといけないことを感じます。
研究という視点と臨床という視点。
これが両立していく方法なのかもしれません。
自分の研究は、基礎系の研究を考えていますので、なかなか臨床とのギャップはあります。
研究の視点で臨床を見過ぎると偏ってしまうし、臨床の視点で、研究を見るともう少し論点を絞らないといけなくなる。
この二つをまとめる能力は多少の努力では身に付かないのでしょう。
目指すはそれができるセラピストになることです。
とりあえずは、臨床を主体にやるべきことをやっていこうと考えています。
自分がいるのは臨床ですし、自分の臨床を変えていくことが最重要だと考えます。
そのエッセンスとして、自分の研究活動を加えていこうと思います。
ただ、論文化や発表、自分の今持っているアイデアを形にすることは必須です。
臨床力と研究力は似て非なるものだと最近感じます。
素晴らしい研究論文を書いている人が、必ずしも素晴らしい臨床を展開しているというわけではありませんし、素晴らしい臨床を展開している人が、必ずしも素晴らしい研究論文が書けるというわけではありません。
ただ、何が違うのかはっきりは言葉にできる段階ではありません。
臨床力は、対応する力が必要な気がします。
患者さんは一人一人違いがあり、それに対して、対応していかないといけない。
研究は、自分が一つずつ明らかにしていくことに対して、探求し、その筋道を立てていく力が必要な気がします。
よく考えると、どちらも対応する力、筋道を立てていく力は必要です。
そう考えると、人に対してなのか、文献に対してなのかの違いなんでしょうか。
やはり考えてもはっきりとした答えは言葉にできません。
なんとなく、自分の感覚でしか分かりません。
誰か答えを持っておられる方に聞いてみたいです。
はっきりはしていませんが、その似て非なる臨床力と研究力が一つになる時に、また新しい視点が出てくるのだと信じています。
この空白の間に色々とあり過ぎて、よく思い出せません。
あまり長い文章を書く気になれなかったということが一つあると思います。
そしてスタンスを急激に変えたということもあるのでしょう。
臨床と研究を両立することの難しさをこの2カ月ぐらいで実感しています。
自分の問題なのだとは思います。
キャパオーバーなのか、ただの怠けなのかは、自分でもよく分かりません。
やはり、臨床にぐっと力を入れようと思うと、研究のことを考える時間は大幅に減ります。
それに疲労感が強い。
こういう風に書くと、ただの言い訳の羅列ですね。
一つの物事を二つの視点で見られるようになっていかないといけないことを感じます。
研究という視点と臨床という視点。
これが両立していく方法なのかもしれません。
自分の研究は、基礎系の研究を考えていますので、なかなか臨床とのギャップはあります。
研究の視点で臨床を見過ぎると偏ってしまうし、臨床の視点で、研究を見るともう少し論点を絞らないといけなくなる。
この二つをまとめる能力は多少の努力では身に付かないのでしょう。
目指すはそれができるセラピストになることです。
とりあえずは、臨床を主体にやるべきことをやっていこうと考えています。
自分がいるのは臨床ですし、自分の臨床を変えていくことが最重要だと考えます。
そのエッセンスとして、自分の研究活動を加えていこうと思います。
ただ、論文化や発表、自分の今持っているアイデアを形にすることは必須です。
臨床力と研究力は似て非なるものだと最近感じます。
素晴らしい研究論文を書いている人が、必ずしも素晴らしい臨床を展開しているというわけではありませんし、素晴らしい臨床を展開している人が、必ずしも素晴らしい研究論文が書けるというわけではありません。
ただ、何が違うのかはっきりは言葉にできる段階ではありません。
臨床力は、対応する力が必要な気がします。
患者さんは一人一人違いがあり、それに対して、対応していかないといけない。
研究は、自分が一つずつ明らかにしていくことに対して、探求し、その筋道を立てていく力が必要な気がします。
よく考えると、どちらも対応する力、筋道を立てていく力は必要です。
そう考えると、人に対してなのか、文献に対してなのかの違いなんでしょうか。
やはり考えてもはっきりとした答えは言葉にできません。
なんとなく、自分の感覚でしか分かりません。
誰か答えを持っておられる方に聞いてみたいです。
はっきりはしていませんが、その似て非なる臨床力と研究力が一つになる時に、また新しい視点が出てくるのだと信じています。
2011年2月26日土曜日
スタンス
修士論文を提出し、研究室内での発表会があり、審査を受け、一段落つきました。
と思ったら、補助講師のお手伝い。
大きな勉強会で、セラピストの方々を対象とした勉強会の補助講師なんて、人生初です。
この1年間ぐらい臨床で考えてきたことを整理していく作業をしないといけないと考えています。
整理すると同時に文献とすりあわせていく作業をしていかないといけないです。
そして、もう一度患者さん一人一人と向き合うスタンスを取りたいと思います。
正直な所、院での生活が中心となってしまい、自分の力を研究にそそぎ過ぎていた感はありますし、そうしないとやっていけない部分がありました。
自分の原点は臨床ですし、どのような疾患でも、どのような場合においても諦めずに、患者さんを治療していく、少しでも今の状態よりも良い状態に変化してもらうことを目標にして、手を抜かずに、一つずつ解決していくスタンスをとっていました。
もう一度その気持ちに戻って、死ぬ気で患者さんと向き合わないといけないと思います。
そして、研究でも修士で行ったテーマは自分のやらないといけないものとなっています。
このテーマは明らかにしていく必要がありますし、発信していく必要があると強く感じます。
責任を持って、進めたいと思います。
臨床に、研究に、そして教育に。
中枢疾患に、整形疾患に、代謝系疾患に。
運動障害に、意識障害に、高次脳機能障害に、痛みに、さらに言えば、めまい。
私のやらないといけないことは広がり過ぎた感があります。
自分自身、立ち位置を決めないといけないのではと考えていましたが、そうではないということに至りました。
自分の原点は目の前のことに向き合うということにあり、それを解決したいという欲求に純粋に向き合うこと、良くしたいという欲求に向き合うことが自分の立ち位置になると考えました。
だから、自分が臨床だとか研究だとか教育だとかは考えないし、疾患でも純粋に目の前にいる人の疾患について、解決していくように学んで行きたい。
立ち位置は決めないし、その都度、変わっていっても良いと思うし、それが自分のスタンスにしていきたい。
真摯にすべての現象に向き合うことを忘れないで、何事にも諦めないで立ち向かうことをしていきたい。
今年の大きな目標は今の知識で、セラピストの初心に変えること。
そして、さらに経験と知識をつけていくことにしようと思う。
それを自分の中だけでは蓄えず、外に伝えていくこともしていくことにしよう。
知らない間にそのような状況に立っている自分がいる。
それにまだ、気付けていなかった。
セラピストとしてはまだまだ経験が足りないが、もっと伝えていくこともしないといけない。
それも真摯に向き合っていきたい。
これからセラピスト人生、エンジンを積みかえないとやっていけない予感がする。
自分のエンジンで、そこまでできるか不安だが、やれるだけやっていこう。
と思ったら、補助講師のお手伝い。
大きな勉強会で、セラピストの方々を対象とした勉強会の補助講師なんて、人生初です。
この1年間ぐらい臨床で考えてきたことを整理していく作業をしないといけないと考えています。
整理すると同時に文献とすりあわせていく作業をしていかないといけないです。
そして、もう一度患者さん一人一人と向き合うスタンスを取りたいと思います。
正直な所、院での生活が中心となってしまい、自分の力を研究にそそぎ過ぎていた感はありますし、そうしないとやっていけない部分がありました。
自分の原点は臨床ですし、どのような疾患でも、どのような場合においても諦めずに、患者さんを治療していく、少しでも今の状態よりも良い状態に変化してもらうことを目標にして、手を抜かずに、一つずつ解決していくスタンスをとっていました。
もう一度その気持ちに戻って、死ぬ気で患者さんと向き合わないといけないと思います。
そして、研究でも修士で行ったテーマは自分のやらないといけないものとなっています。
このテーマは明らかにしていく必要がありますし、発信していく必要があると強く感じます。
責任を持って、進めたいと思います。
臨床に、研究に、そして教育に。
中枢疾患に、整形疾患に、代謝系疾患に。
運動障害に、意識障害に、高次脳機能障害に、痛みに、さらに言えば、めまい。
私のやらないといけないことは広がり過ぎた感があります。
自分自身、立ち位置を決めないといけないのではと考えていましたが、そうではないということに至りました。
自分の原点は目の前のことに向き合うということにあり、それを解決したいという欲求に純粋に向き合うこと、良くしたいという欲求に向き合うことが自分の立ち位置になると考えました。
だから、自分が臨床だとか研究だとか教育だとかは考えないし、疾患でも純粋に目の前にいる人の疾患について、解決していくように学んで行きたい。
立ち位置は決めないし、その都度、変わっていっても良いと思うし、それが自分のスタンスにしていきたい。
真摯にすべての現象に向き合うことを忘れないで、何事にも諦めないで立ち向かうことをしていきたい。
今年の大きな目標は今の知識で、セラピストの初心に変えること。
そして、さらに経験と知識をつけていくことにしようと思う。
それを自分の中だけでは蓄えず、外に伝えていくこともしていくことにしよう。
知らない間にそのような状況に立っている自分がいる。
それにまだ、気付けていなかった。
セラピストとしてはまだまだ経験が足りないが、もっと伝えていくこともしないといけない。
それも真摯に向き合っていきたい。
これからセラピスト人生、エンジンを積みかえないとやっていけない予感がする。
自分のエンジンで、そこまでできるか不安だが、やれるだけやっていこう。
2011年1月12日水曜日
修士論文提出
本日、修士論文を提出してきました。
やっと年が明けた感覚がします。
ずっと論文作業に重点を置かざるを得なかったので、少し辛かったです。
その分、自分の力になったと思います。
1年前の自分とは確実に違います。
新しい研究も考えつきました。
これが明らかになれば、臨床応用できるはずです。
概念を臨床応用できるようにしたいと思います。
一つの方法論が提起できたとしても、応用が利かないと意味がないような気がします。
論理的な思考の中に組み込めるような、独立していない概念を臨床に組み込めるようにしたい。
少し壮大ですが、明らかにしたいことが明らかにできそうなので、頑張ってみようと思います。
その前に、口頭試問を受ける準備をしないといけません。
明日から頑張ります。
今年の目標は、壮大な計画を進めること、自分の今までの研究を外へ表出していくことです。
それに加えて、今まで蓄積していたものを少しずつ臨床へ還元できたらなと思います。
今年はエンジン全開です。
止まらないように走り続けよう。
やっと年が明けた感覚がします。
ずっと論文作業に重点を置かざるを得なかったので、少し辛かったです。
その分、自分の力になったと思います。
1年前の自分とは確実に違います。
新しい研究も考えつきました。
これが明らかになれば、臨床応用できるはずです。
概念を臨床応用できるようにしたいと思います。
一つの方法論が提起できたとしても、応用が利かないと意味がないような気がします。
論理的な思考の中に組み込めるような、独立していない概念を臨床に組み込めるようにしたい。
少し壮大ですが、明らかにしたいことが明らかにできそうなので、頑張ってみようと思います。
その前に、口頭試問を受ける準備をしないといけません。
明日から頑張ります。
今年の目標は、壮大な計画を進めること、自分の今までの研究を外へ表出していくことです。
それに加えて、今まで蓄積していたものを少しずつ臨床へ還元できたらなと思います。
今年はエンジン全開です。
止まらないように走り続けよう。
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