この前に実習生の指導のことで少しだけ相談にのらせてもらいました。
話している間に、自分の臨床実習指導に対する以前の考え方と今の考え方に違いがあることに、気付かされました。
臨床指導する際によくレポートを用いられますが、レポートを指導する際に、なんだが、レポートというテストに学生さんが解答していて、それの答え合わせをしているような錯覚に陥ります。
これだと、バイザーの指導、つまりレポートの修正がすべて正しいようなことになってしまうように思います。
よく、このようなケースで思うことは、自分の考え方を全部押しつけてしまって、学生さんの考えが出てこないとか、言ったのに直らないということに陥ってしまいます。
まず前者では、レポートをテストのように考えてしまうことに問題があります。
レポートがテストであれば、バイザーが持っている考え方のみが答えになってしまい、どうしてもバイザー自体がその方向に誘導せざる得なくなってしまいます。
そうすれば、学生さんの考え方を導くことは難しくなってしまいます。
また、逆に学生さんの意見を尊重し過ぎると、バイザーの考え方と違う方向に行ってしまい、バイザーは治療に口を出せずに、放棄した形になる。
これは確実にバイザーが自分で答えを持っていることに問題があり、レポートを一つの問題、テストとしてとらえていることに最大の原因があるように思います。
また後者でも、レポートを問題、テストとしてとらえていることに問題があります。
バイザーは答えを持っていて、その答えに行き着くように誘導していきますが、その過程を学生さんは同じようにふんでいないのです。
一つの問題点を出してくる時にでも、確実に思考過程はセラピストの方がより多い過程を通ってきています。
だから学生さんのレポートに書けていないことは、その思考過程をふんでいないことになります。
その思考過程を一緒に考えずに、テストの解答のように物事を言ってしまっても、学生さんは意味が理解できません。
意味が分からないと記憶に残りませんし、なぜ、バイザーがそのことを強調するか、全く分かりません。
そして、解答を作る時、つまりレポートを作成する際に、バイザーの意図通りに直せない、もしくは、加えてこないことが生じるのです。
しかも症例患者レポートの場合、一つ一つの問題ではなく、たくさんの問題がすべて、まとまった形になり、治療に結びつけないといけません。
その過程にはたくさんの思考過程がともないます。
そうなると一つ道を間違えば、とんでもなくバイザーとかけ離れた解答になるのです。
この二つの問題は、確実にレポートをテスト化していることに共通しています。
それは意識的ではないにしろ、潜在的にあるものなのでしょう。
実際にレポートが出来ない者の理由としては、バイザーの考え方と合わないレポートを作成していることが多いように感じます。
そもそもレポートとは考え方を具現化し、それに対して、バイザーの考え方を加えながら、より患者さんの治療に役立てると言うものです。
だから解答などないはずです。
セラピスト自体の持っている解答もやはり、仮説であり、間違えもあり、正解もあり、そして、より詳細を知る必要がある部分もあるはずです。
また、見落としている部分もあるでしょう。
そうなると、このようなテスト型レポートでは全く役に立ちません。
逆に、バイザーもレポートを書いてくる必要があるでしょう。
それをお互い見せあい、統合していくことこそが、患者さんの治療に繋がっていくことになるのではないでしょうか。
そうすれば、思考過程の手順もより学生さんは分かります。
ただ、それはセラピストにとって、非常に大変な労力が必要となるでしょう。
そんな回りくどいことをしなくても、評価しながら、治療しながら、患者さんを共に診ることができるのではないでしょうか。
治療の仮説を吟味する場所はその場所にありますし、すぐに評価できます。
そして、正しい解答がないのであれば、まずは自分のセラピストとしての経験から導かれる思考過程を学生さんに伝える必要があります。
学生さんの思考過程は決して多くの数を踏んでいません。
そのようにセラピストが思考過程の数の多さを示すことがまずは、学生さんの成長に結び付けられるのではないでしょうか。
そして、なぜその思考過程に至ったかを話すべきではないでしょうか。
そうすることによって、学生さんはある一定の思考方法が分かります。
しかも臨床の場で、身体で感じることができる。
身体で感じたことと、思考の過程を指導されることによって、学生さんは、理学療法の思考過程を学習することができる。
そうすれば、レポートに書きなさいと言ったことが書かれないということはない。
思考と、実際の行為がマッチングしていて、意味も理解できるから。
しかもバイザーの思考過程を学んでいくうちに、自発的にバイザーと同じ見方をしながら、違うことも見つけられるようになる。
それは学生さんが、バイザーとは違った経験をしていますし、しかも固定概念がないことから新しい視点が得られる。
それをバイザーが経験から解釈し、学生さんと話し合うことで、新たな問題点や治療の進め方が生じる。
そうすれば、お互いが治療に対しての解答を出していき、ディスカッションになるのではないでしょうか。
私が言いたかったことは、学生さんと共に学んでいくこと、治療していくことの大切さです。
学生さんが自分と同じ考えにならないのは当たり前のことです。
だからこそ、場数を踏んだ者が、語らなければ、学生さんは、分かりません。
だから、まずは、自分の経験をすべて伝える必要があるのです。
でも、それは決して正しい答えではありません。
正しい答えは結果でしか言えません。
だからないと言って等しいのです。
すべてバイザーが伝えた上で、学生さんがさらに考える。
そして、バイザーがさらに考え、治療に反映していくことで、どちらも成長でき、患者さんもより改善に向けられるように思います。
だから私は、いつも学生さんに、
「患者さんのことを見させてもらうのだから、患者さんのプラスになるように自分は考えないといけないのですよ。だから一緒に考えて、気付いたことを話し合おう。」
と言います。
2011年7月18日月曜日
2011年7月5日火曜日
学習者としての経験
今日、とうとう運転免許を取得しました。
4月から始まって、3か月、時間を作るのが大変でしたが、良い経験になりました。
大学院、教習所と学校と言う名のものを2つも卒業しました。
運転を習うのに感じたこと、それは運動を学習していく過程です。
運動を新しく獲得していく過程を、実感できたのは非常に自分の治療にとっても有益でした。
よくよく感じるのは、注意には容量があること。
運転初期には、注意を分配どころか、自分のハンドルが車を動かしている感覚すらありません。
そのため、動きの予測ができず、恐怖心が強く、車のエンジンの音すら聞こえない状態。
その頃に言われたことは、「道に自分や車を向けていくようにしなさい」、「視線を動く方向に向けていきなさい」ということ。
移動が視線によって導かれること、視覚の重要性を再認識しました。
そして、自分のハンドルの感覚と視覚をマッチングさせる作業でした。
ハンドルが慣れた頃には、速度を出していく作業。
これは速度と自分の足部の圧のマッチングではないかと思います。
しかし、速度を出すのは怖かった。
怖くなくなってきたのは、自分が動かしている車を外から見たイメージができたぐらいでした。
何か運動イメージと視覚イメージは車を動かすこと、つまりダイナミックタッチには必要なのではないかとふと思いました。
しかし、今思うと、教官には注意をコントロールされていたように思います。まずはハンドル操作と車の動きの関係、その次は速度と圧の関係。
いつの間にやら、注意しなくてもハンドル操作ができていたように思います。
そうすると今まで、パニックだった状態から脱出していました。
そして、次は速度と圧みたいに次々注意する場所を変化させていきました。
これは、一つずつの運動を視覚を利用して、誤差学習しているのではないかと思いました。
その後、できたことを一緒にしていくような作業を学習したように感じます。
今はここに注意して、次はここみたいな感じですかね。
順序を覚えていくみたいな感じです。
人によって、差はあると思うのですが、そのような過程を経ているように思います。
学習者は無理なことを言っても、混乱状態の際には、何も注意できないし、覚えられないということははっきり言えます。
患者さんも受傷したり、発症した当初はそのような感覚なのではないでしょうか。
身体が思うように動かない。
違和感を感じる。
自分の身体でないようだ。
など。
そのような状態で、難しい課題をしても、混乱を助長するだけではないでしょうか。
初めて車に乗った人に外に出て、まだ、ハンドルも操作できないのに、人に気をつけて運転しないと駄目と言っているのと同じではないでしょうか。
リハビリテーションを学習ととらえるのであれば、容量を考える必要があるのではないかと思います。
よく言われている機能乖離を助長してしまうことと同じではないでしょうか。
機能乖離の解除には、弱い感覚が必要と言われています。
弱い感覚とは、その対象者が受容できる範囲と言う意味ではないかと思います。
学習者として経験できたことは非常に感慨深いことだと感じました。
まだまだ、運転で学んだことはありますが、また気が向いて、思い浮かぶ時に書いていこうと思います。
4月から始まって、3か月、時間を作るのが大変でしたが、良い経験になりました。
大学院、教習所と学校と言う名のものを2つも卒業しました。
運転を習うのに感じたこと、それは運動を学習していく過程です。
運動を新しく獲得していく過程を、実感できたのは非常に自分の治療にとっても有益でした。
よくよく感じるのは、注意には容量があること。
運転初期には、注意を分配どころか、自分のハンドルが車を動かしている感覚すらありません。
そのため、動きの予測ができず、恐怖心が強く、車のエンジンの音すら聞こえない状態。
その頃に言われたことは、「道に自分や車を向けていくようにしなさい」、「視線を動く方向に向けていきなさい」ということ。
移動が視線によって導かれること、視覚の重要性を再認識しました。
そして、自分のハンドルの感覚と視覚をマッチングさせる作業でした。
ハンドルが慣れた頃には、速度を出していく作業。
これは速度と自分の足部の圧のマッチングではないかと思います。
しかし、速度を出すのは怖かった。
怖くなくなってきたのは、自分が動かしている車を外から見たイメージができたぐらいでした。
何か運動イメージと視覚イメージは車を動かすこと、つまりダイナミックタッチには必要なのではないかとふと思いました。
しかし、今思うと、教官には注意をコントロールされていたように思います。まずはハンドル操作と車の動きの関係、その次は速度と圧の関係。
いつの間にやら、注意しなくてもハンドル操作ができていたように思います。
そうすると今まで、パニックだった状態から脱出していました。
そして、次は速度と圧みたいに次々注意する場所を変化させていきました。
これは、一つずつの運動を視覚を利用して、誤差学習しているのではないかと思いました。
その後、できたことを一緒にしていくような作業を学習したように感じます。
今はここに注意して、次はここみたいな感じですかね。
順序を覚えていくみたいな感じです。
人によって、差はあると思うのですが、そのような過程を経ているように思います。
学習者は無理なことを言っても、混乱状態の際には、何も注意できないし、覚えられないということははっきり言えます。
患者さんも受傷したり、発症した当初はそのような感覚なのではないでしょうか。
身体が思うように動かない。
違和感を感じる。
自分の身体でないようだ。
など。
そのような状態で、難しい課題をしても、混乱を助長するだけではないでしょうか。
初めて車に乗った人に外に出て、まだ、ハンドルも操作できないのに、人に気をつけて運転しないと駄目と言っているのと同じではないでしょうか。
リハビリテーションを学習ととらえるのであれば、容量を考える必要があるのではないかと思います。
よく言われている機能乖離を助長してしまうことと同じではないでしょうか。
機能乖離の解除には、弱い感覚が必要と言われています。
弱い感覚とは、その対象者が受容できる範囲と言う意味ではないかと思います。
学習者として経験できたことは非常に感慨深いことだと感じました。
まだまだ、運転で学んだことはありますが、また気が向いて、思い浮かぶ時に書いていこうと思います。
登録:
投稿 (Atom)