「ニューロリハビリテーション 脳卒中片麻痺」研修会の募集の延長を致します。
下記に詳細、要項、申し込み先を記載しておりますので、要項に従い、申し込み願います。
よろしくお願い致します。
華リハ訪問看護ステーション 研修会案内
ある理学療法士の一期一会
リハビリテーションについて自分の感じた事、経験した事、考えた事を書いていきます。見られた方はぜひ気軽にコメント下さい。
2012年7月26日木曜日
2012年5月28日月曜日
2012年4月15日日曜日
2012年3月12日月曜日
訪問リハの世界に来て感じること
病院勤務から訪問リハの世界に来て、もう半年が経ちます。
とても忙しく、日々の業務に頭が働かなくなりそうですが、やらないといけないことは増える一方で、言葉だけ、考えだけが先行して、行動に移すことができていません。
おそらく、行動に移すことができていないのではなく、行動に移すことがしんどいので、やろうとしていないだけだと思います。
疲れたとか、時間がないとか、言い訳しているだけでしょう。
いざ、強制的にやれと言われれば、切迫した状態になれば、時間を作ることもできるでしょう。
ここ何ヶ月か弱い自分がいます。
そろそろ、切り替えないといけません。
訪問リハの世界にどっぷり浸かっています。
この世界に半年しかまだ浸かっていませんが、病院勤務では気づけなかったことがたくさんあります。
当たり前ですが、自宅に帰っても治療を必要とする人はたくさんいるということを改めて知りました。
病院に勤務していた時は、どんな状態であっても、退院すれば、「はい、さよなら」といった感覚となってしまいがちでした。
実際、自宅に帰った後や転院した後の経過を知ることは、わずかでした。
訪問では、そういった方達を対象とします。
私が担当している利用者さんは退院した中の一握りだと思いますし、病院のリハビリテーションのみで、十分、生活や仕事に復帰できる方はたくさんおられると思いますが、意外に困難な状況で自宅へ帰宅される方が多いように感じます。
特に整形外科疾患後の利用者さんは、入院期間が短く、こんな状態で退院するのかという方を多く見ます。
病院での治療の在り方を少し考えてしまいます。
確かに医療的な処置は終了していますが、生活できる能力ではない。
病院と言った整備された環境の中でも一人で生活できる状態ではないのに、退院。
確かに診療報酬が変化し、早期退院となってきていますが、それでいいのかと疑問を抱いてしまう。
その中で、病院で関わるセラピストは焦りが出るのかもしれませんし、パフォーマンスでもできるということを重要視してしまうのかもしれません。
そう考えると訪問リハがその受け皿になるしかないと自分は考えるのです。
早期離床、早期退院してきた利用者さんを自宅の中で、安全な状態の生活を確保しながら、ゆっくりと機能の回復をしていく。
人は生まれてから歩くまでに1年かかります。
それもよちよち歩きまでの期間です。
そのように時間がかかる能力を回復していくために、そのような短い時間で再獲得できるように私は思えません。
訪問リハは1度の治療時間や1週間の合計した治療時間は回復期の病棟には負けるかもしれませんが、時間をかけてじっくり計画していき、利用者さんのニーズに合わせて、回復していくことはできると思います。
そのような点では、リハビリテーションを行う上では、とても良い環境なのかもしれません。
しかし、今回の改定では訪問リハに1週間に20分1単位を6単位までしか行えないといった回数制限をつけられてしまいました。
回復期ではあんなにリハビリテーションをするのに、自宅に帰ったらリハビリテーションは少なくて良いというのは、とても矛盾しているように思います。
また、訪問リハ=慢性期、維持期といったイメージが強いのかもしれません。
おそらく、時代の変化に伴って、一般的に回復期と言われる利用者さんもたくさんおられますし、急性期の利用者さんだっておられます。
私は一般的に維持期と言われる利用者さんであっても、十分機能的に回復できると思います。
そう考えると訪問リハというのは、様々な疾患や病期の利用者さんがおられるのです。
それに対して、リハの回数制限は如何なものかと思います。
選択が狭まるということは利用者さんにとってこの上ない不利が生じるのです。
それは、予防を進めていく方針と逆行しています。
予防するということは、何も健康な状態の方だけでなく、再度疾患を発症させないことや怪我をさせないことでもあるのです。
訪問リハビリテーションは、とても重要な位置を占めていくように感じます。
私は、訪問リハに来る前は、そこまで魅力的だと感じていませんでしたが、その世界に浸かることで、リハビリテーションの中の重要性や魅力を感じますし、可能性の高さを感じます。
これからは、もしかすると訪問リハが最前線であり、最先端になるのかもしれません。
訪問リハから生まれるものがたくさん出てくるように思います。
今まではある期間だけのリハビリテーションだったのが、とんでもなく長い時間のリハビリテーションを受けることによって、どのように利用者さんが変化するのか。
リハビリテーションの可能性を出せるのではないかと、自分自身は思います。
とても忙しく、日々の業務に頭が働かなくなりそうですが、やらないといけないことは増える一方で、言葉だけ、考えだけが先行して、行動に移すことができていません。
おそらく、行動に移すことができていないのではなく、行動に移すことがしんどいので、やろうとしていないだけだと思います。
疲れたとか、時間がないとか、言い訳しているだけでしょう。
いざ、強制的にやれと言われれば、切迫した状態になれば、時間を作ることもできるでしょう。
ここ何ヶ月か弱い自分がいます。
そろそろ、切り替えないといけません。
訪問リハの世界にどっぷり浸かっています。
この世界に半年しかまだ浸かっていませんが、病院勤務では気づけなかったことがたくさんあります。
当たり前ですが、自宅に帰っても治療を必要とする人はたくさんいるということを改めて知りました。
病院に勤務していた時は、どんな状態であっても、退院すれば、「はい、さよなら」といった感覚となってしまいがちでした。
実際、自宅に帰った後や転院した後の経過を知ることは、わずかでした。
訪問では、そういった方達を対象とします。
私が担当している利用者さんは退院した中の一握りだと思いますし、病院のリハビリテーションのみで、十分、生活や仕事に復帰できる方はたくさんおられると思いますが、意外に困難な状況で自宅へ帰宅される方が多いように感じます。
特に整形外科疾患後の利用者さんは、入院期間が短く、こんな状態で退院するのかという方を多く見ます。
病院での治療の在り方を少し考えてしまいます。
確かに医療的な処置は終了していますが、生活できる能力ではない。
病院と言った整備された環境の中でも一人で生活できる状態ではないのに、退院。
確かに診療報酬が変化し、早期退院となってきていますが、それでいいのかと疑問を抱いてしまう。
その中で、病院で関わるセラピストは焦りが出るのかもしれませんし、パフォーマンスでもできるということを重要視してしまうのかもしれません。
そう考えると訪問リハがその受け皿になるしかないと自分は考えるのです。
早期離床、早期退院してきた利用者さんを自宅の中で、安全な状態の生活を確保しながら、ゆっくりと機能の回復をしていく。
人は生まれてから歩くまでに1年かかります。
それもよちよち歩きまでの期間です。
そのように時間がかかる能力を回復していくために、そのような短い時間で再獲得できるように私は思えません。
訪問リハは1度の治療時間や1週間の合計した治療時間は回復期の病棟には負けるかもしれませんが、時間をかけてじっくり計画していき、利用者さんのニーズに合わせて、回復していくことはできると思います。
そのような点では、リハビリテーションを行う上では、とても良い環境なのかもしれません。
しかし、今回の改定では訪問リハに1週間に20分1単位を6単位までしか行えないといった回数制限をつけられてしまいました。
回復期ではあんなにリハビリテーションをするのに、自宅に帰ったらリハビリテーションは少なくて良いというのは、とても矛盾しているように思います。
また、訪問リハ=慢性期、維持期といったイメージが強いのかもしれません。
おそらく、時代の変化に伴って、一般的に回復期と言われる利用者さんもたくさんおられますし、急性期の利用者さんだっておられます。
私は一般的に維持期と言われる利用者さんであっても、十分機能的に回復できると思います。
そう考えると訪問リハというのは、様々な疾患や病期の利用者さんがおられるのです。
それに対して、リハの回数制限は如何なものかと思います。
選択が狭まるということは利用者さんにとってこの上ない不利が生じるのです。
それは、予防を進めていく方針と逆行しています。
予防するということは、何も健康な状態の方だけでなく、再度疾患を発症させないことや怪我をさせないことでもあるのです。
訪問リハビリテーションは、とても重要な位置を占めていくように感じます。
私は、訪問リハに来る前は、そこまで魅力的だと感じていませんでしたが、その世界に浸かることで、リハビリテーションの中の重要性や魅力を感じますし、可能性の高さを感じます。
これからは、もしかすると訪問リハが最前線であり、最先端になるのかもしれません。
訪問リハから生まれるものがたくさん出てくるように思います。
今まではある期間だけのリハビリテーションだったのが、とんでもなく長い時間のリハビリテーションを受けることによって、どのように利用者さんが変化するのか。
リハビリテーションの可能性を出せるのではないかと、自分自身は思います。
2011年12月31日土曜日
今年の反省
最近、twitterばかりで、ブログを更新していません。
気持ちをそのまま、その場で残すことができるので、便利でついついそちらを優先してしまいます。
それはそれでいいのですが、ぐっと考えをまとめることをしないといけないと感じます。
今年も終わるので、久々にブログを見ていると、自分に迷いがあるのに気付きます。
背負ってきているものが、ドンドン大きくなってきているようです。
自分のことが、自分だけのことではなくなってきているのを感じます。
自分の後ろにはたくさんの者、物がくっついてきています。
このことは、とても喜ばしいことですが、自分の器から溢れて出るほどのものになってきているのです。
大学院を修了した責任、会社の名前がついてくるという責任、リハビリテーションを実施する一人としての責任。
責任を持たないといけないものが、前より増えてきています。
責任は果たせないと、だんだんプレッシャーになり、徐々に課題が増えていきます。
常にデュアルタスクになるのです。
しかも、課題は以前と性質が変わってきてます。
ある一定の期間頑張れば、それで終わるものではなくなってきているのです。
ずっと先があって、区切りがなくなってきています。
というか自分でうまく区切りをつけられていないのかもしれません。
やらないといけないことや、やりたいことはあるのだけど、結果を出せていない自分がいます。
今年は、結果を出せず、課題が残り、すべてが中途半端な年になってしまったように思います。
自分で自分の課題をコントロールできるように、そして、自分をどのように見せていくのかを考えながら、行動していきたいと思います。
気持ちをそのまま、その場で残すことができるので、便利でついついそちらを優先してしまいます。
それはそれでいいのですが、ぐっと考えをまとめることをしないといけないと感じます。
今年も終わるので、久々にブログを見ていると、自分に迷いがあるのに気付きます。
背負ってきているものが、ドンドン大きくなってきているようです。
自分のことが、自分だけのことではなくなってきているのを感じます。
自分の後ろにはたくさんの者、物がくっついてきています。
このことは、とても喜ばしいことですが、自分の器から溢れて出るほどのものになってきているのです。
大学院を修了した責任、会社の名前がついてくるという責任、リハビリテーションを実施する一人としての責任。
責任を持たないといけないものが、前より増えてきています。
責任は果たせないと、だんだんプレッシャーになり、徐々に課題が増えていきます。
常にデュアルタスクになるのです。
しかも、課題は以前と性質が変わってきてます。
ある一定の期間頑張れば、それで終わるものではなくなってきているのです。
ずっと先があって、区切りがなくなってきています。
というか自分でうまく区切りをつけられていないのかもしれません。
やらないといけないことや、やりたいことはあるのだけど、結果を出せていない自分がいます。
今年は、結果を出せず、課題が残り、すべてが中途半端な年になってしまったように思います。
自分で自分の課題をコントロールできるように、そして、自分をどのように見せていくのかを考えながら、行動していきたいと思います。
2011年11月13日日曜日
臨床力と研究力2
以前同様のテーマでブログを書いてから、どのようにすれば、考えていましたが、少し広がりが出てきました。
臨床と研究、教育というものは、三本柱だと言われ、自分もそうだと感じていました。
しかし、自分が感じていた臨床、研究、教育と言うものは、臨床の立場から見たものだと気付きました。
実は臨床にも臨床から見た臨床があり、研究から見た臨床がある。そして、教育から見た臨床がある。
自分は臨床にいるためにほとんどを臨床からしか見られていませんが、臨床の切り口でも、研究視点から見ることができます。
臨床研究というのは、それに当てはまるように思います。グループ化したり、トレーニングを系統立てたり、それの効果を検証していく。
大きな枠組みで、効果を検証していくと言った印象です。
臨床家による臨床は少し様相が違ってくるように思います。患者さんや利用者さん一人一人の病態をみて、それに対して仮説を立て、治療を検証していく。
より、個別性が強いと思います。
研究にするのであれば、シングルケースとなるのでしょう。
シングルケースをたくさん考察していき、シングルケース同士を比較していく。
このような研究が臨床家による研究なのでしょうか。
こんな論文が出てくるとワクワクするのではないでしょうか。
勿論、臨床研究のようなグループごとの研究も必要でしょうが、それだけでは、本当のリハビリテーションの極意は表現できないように思います。
直接とらえると、これすれば、みんなが良い方向に行きますよと言うことになる。
それって違うのではないかと私は感じます。
これからはシングルケースを科学的に示していく時代になるのではないかと思います。
一つの研究の価値と一つのシングルケーススタディーの価値が対等になる時代になればいいなあと思います。
基礎的な研究も臨床の仮説をより進化させたり、証明するためには必要な研究です。これは研究中の研究というのでしょうか。
ここを考えていくことでも、リハビリテーションを前へ進めていけるのではないでしょうか。
教育に関しては、全く無知です。臨床で、実習生を教えるくらいしか、私はしたことがないので、何とも言えませんが、おそらく場所や立場によって、教育の仕方は変わるのではないかと思います。
このように、臨床の中でも様々な考え、研究でも、教育でもそのように様々に細分化できるように思います。
それぞれが大切で、順番を決められないですが、自分の立ち位置を知ることが重要に思います。
自分は臨床家と言う立場から研究をしていくのか、研究者としての立場から臨床をしていくのかでは大きな違いがあります。
人は思考をそれによって、変化していくことができますが、本当の核となる所は変えられません。
いくら器用な人でも、使い分けはなかなか難しいでしょう。
なので、自分の核がどこにあるのかを知らないといけないように感じます。
そうすれば、自分をある程度制御できるのではないかと思います。
これを間違えれば、とんでもないことになってしまいます。
私は修士で研究が知らない間にメインになっていたため、知らない間に、臨床家の臨床というものを失いかけていました。
どうしても当てはめようとしてしまう。
自分の研究と結び付けたり、知見と結び付けようとしてしまっていました。
純粋に今ある、現在起きている現象というものをとらえることが難しくなっていました。
自分が未熟だからそうなのかもしれません。
真の研究者というのは、臨床も見られてしまうのかもしれないかもしれませんが。
だから自分は臨床は純粋に現象を見て、とらえて、じっくり患者さんと向き合おうと思いました。
臨床は臨床のスキルが必要となるのです。
研究は研究で綿密な組み立てが重要となります。
一つのことをとことん追求し、一つずつ詰めていく作業が必要となります。
飛躍し過ぎない。
これも純粋に現象を解釈しないといけません。
なんか話してると似てる気がしますが、スキルとしては全く違うように感じます。
私はまだ真髄が分かりませんが、「研究は1つの物事を明らかにしていく過程であり、臨床は一つの物事を多面的に解釈していく過程」だと教しえて頂きました。
これが、正しいのかどうかはまだ答えが出ていません。
今の自分に言えることは自分の核の考えを知ること、つまり、立ち位置を知ることが、臨床と研究の両方をとらえていくための一つの過程になるのではないかと思いました。
今の私には研究と臨床を全く別物としてとらえていくことしかできません。
別れることで、新しいものが生まれることに期待しています。
研究と臨床の両方を中間的にやっていくと言うことは二つのことをバランスよくやることとは、また違うように感じます。
早くその世界を見てみたいです。
臨床と研究、教育というものは、三本柱だと言われ、自分もそうだと感じていました。
しかし、自分が感じていた臨床、研究、教育と言うものは、臨床の立場から見たものだと気付きました。
実は臨床にも臨床から見た臨床があり、研究から見た臨床がある。そして、教育から見た臨床がある。
自分は臨床にいるためにほとんどを臨床からしか見られていませんが、臨床の切り口でも、研究視点から見ることができます。
臨床研究というのは、それに当てはまるように思います。グループ化したり、トレーニングを系統立てたり、それの効果を検証していく。
大きな枠組みで、効果を検証していくと言った印象です。
臨床家による臨床は少し様相が違ってくるように思います。患者さんや利用者さん一人一人の病態をみて、それに対して仮説を立て、治療を検証していく。
より、個別性が強いと思います。
研究にするのであれば、シングルケースとなるのでしょう。
シングルケースをたくさん考察していき、シングルケース同士を比較していく。
このような研究が臨床家による研究なのでしょうか。
こんな論文が出てくるとワクワクするのではないでしょうか。
勿論、臨床研究のようなグループごとの研究も必要でしょうが、それだけでは、本当のリハビリテーションの極意は表現できないように思います。
直接とらえると、これすれば、みんなが良い方向に行きますよと言うことになる。
それって違うのではないかと私は感じます。
これからはシングルケースを科学的に示していく時代になるのではないかと思います。
一つの研究の価値と一つのシングルケーススタディーの価値が対等になる時代になればいいなあと思います。
基礎的な研究も臨床の仮説をより進化させたり、証明するためには必要な研究です。これは研究中の研究というのでしょうか。
ここを考えていくことでも、リハビリテーションを前へ進めていけるのではないでしょうか。
教育に関しては、全く無知です。臨床で、実習生を教えるくらいしか、私はしたことがないので、何とも言えませんが、おそらく場所や立場によって、教育の仕方は変わるのではないかと思います。
このように、臨床の中でも様々な考え、研究でも、教育でもそのように様々に細分化できるように思います。
それぞれが大切で、順番を決められないですが、自分の立ち位置を知ることが重要に思います。
自分は臨床家と言う立場から研究をしていくのか、研究者としての立場から臨床をしていくのかでは大きな違いがあります。
人は思考をそれによって、変化していくことができますが、本当の核となる所は変えられません。
いくら器用な人でも、使い分けはなかなか難しいでしょう。
なので、自分の核がどこにあるのかを知らないといけないように感じます。
そうすれば、自分をある程度制御できるのではないかと思います。
これを間違えれば、とんでもないことになってしまいます。
私は修士で研究が知らない間にメインになっていたため、知らない間に、臨床家の臨床というものを失いかけていました。
どうしても当てはめようとしてしまう。
自分の研究と結び付けたり、知見と結び付けようとしてしまっていました。
純粋に今ある、現在起きている現象というものをとらえることが難しくなっていました。
自分が未熟だからそうなのかもしれません。
真の研究者というのは、臨床も見られてしまうのかもしれないかもしれませんが。
だから自分は臨床は純粋に現象を見て、とらえて、じっくり患者さんと向き合おうと思いました。
臨床は臨床のスキルが必要となるのです。
研究は研究で綿密な組み立てが重要となります。
一つのことをとことん追求し、一つずつ詰めていく作業が必要となります。
飛躍し過ぎない。
これも純粋に現象を解釈しないといけません。
なんか話してると似てる気がしますが、スキルとしては全く違うように感じます。
私はまだ真髄が分かりませんが、「研究は1つの物事を明らかにしていく過程であり、臨床は一つの物事を多面的に解釈していく過程」だと教しえて頂きました。
これが、正しいのかどうかはまだ答えが出ていません。
今の自分に言えることは自分の核の考えを知ること、つまり、立ち位置を知ることが、臨床と研究の両方をとらえていくための一つの過程になるのではないかと思いました。
今の私には研究と臨床を全く別物としてとらえていくことしかできません。
別れることで、新しいものが生まれることに期待しています。
研究と臨床の両方を中間的にやっていくと言うことは二つのことをバランスよくやることとは、また違うように感じます。
早くその世界を見てみたいです。
2011年9月30日金曜日
新生活のスタート
久々のブログです。
9月いっぱいは、引っ越しの準備などでバタバタし、何もできない状態でした。
やっと引っ越しが落ち着きました。
まだ、ネット環境が整っていないので、慣れない携帯から打っています。
自分で色々と考えることがあり、それも記録として残しておきたいと考えています。
ネット環境が整い次第まとまったことを書きます。
携帯は打ちにくいので、やはりまとまった文章を書きにくいですね。
パソコンから打たしてもらいます。
9月いっぱいは、引っ越しの準備などでバタバタし、何もできない状態でした。
やっと引っ越しが落ち着きました。
まだ、ネット環境が整っていないので、慣れない携帯から打っています。
自分で色々と考えることがあり、それも記録として残しておきたいと考えています。
ネット環境が整い次第まとまったことを書きます。
携帯は打ちにくいので、やはりまとまった文章を書きにくいですね。
パソコンから打たしてもらいます。
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