2011年7月5日火曜日

学習者としての経験

 今日、とうとう運転免許を取得しました。
 4月から始まって、3か月、時間を作るのが大変でしたが、良い経験になりました。
 大学院、教習所と学校と言う名のものを2つも卒業しました。

 運転を習うのに感じたこと、それは運動を学習していく過程です。
 運動を新しく獲得していく過程を、実感できたのは非常に自分の治療にとっても有益でした。
 よくよく感じるのは、注意には容量があること。
 運転初期には、注意を分配どころか、自分のハンドルが車を動かしている感覚すらありません。
 そのため、動きの予測ができず、恐怖心が強く、車のエンジンの音すら聞こえない状態。
 その頃に言われたことは、「道に自分や車を向けていくようにしなさい」、「視線を動く方向に向けていきなさい」ということ。
 移動が視線によって導かれること、視覚の重要性を再認識しました。
 そして、自分のハンドルの感覚と視覚をマッチングさせる作業でした。

 ハンドルが慣れた頃には、速度を出していく作業。
 これは速度と自分の足部の圧のマッチングではないかと思います。
 しかし、速度を出すのは怖かった。
 怖くなくなってきたのは、自分が動かしている車を外から見たイメージができたぐらいでした。
 何か運動イメージと視覚イメージは車を動かすこと、つまりダイナミックタッチには必要なのではないかとふと思いました。

 しかし、今思うと、教官には注意をコントロールされていたように思います。まずはハンドル操作と車の動きの関係、その次は速度と圧の関係。
 いつの間にやら、注意しなくてもハンドル操作ができていたように思います。
 そうすると今まで、パニックだった状態から脱出していました。
 そして、次は速度と圧みたいに次々注意する場所を変化させていきました。
 これは、一つずつの運動を視覚を利用して、誤差学習しているのではないかと思いました。
 その後、できたことを一緒にしていくような作業を学習したように感じます。
 今はここに注意して、次はここみたいな感じですかね。
 順序を覚えていくみたいな感じです。
 人によって、差はあると思うのですが、そのような過程を経ているように思います。

 学習者は無理なことを言っても、混乱状態の際には、何も注意できないし、覚えられないということははっきり言えます。
 患者さんも受傷したり、発症した当初はそのような感覚なのではないでしょうか。
 身体が思うように動かない。
 違和感を感じる。
 自分の身体でないようだ。
 など。
 そのような状態で、難しい課題をしても、混乱を助長するだけではないでしょうか。
 初めて車に乗った人に外に出て、まだ、ハンドルも操作できないのに、人に気をつけて運転しないと駄目と言っているのと同じではないでしょうか。

 リハビリテーションを学習ととらえるのであれば、容量を考える必要があるのではないかと思います。
 よく言われている機能乖離を助長してしまうことと同じではないでしょうか。
 機能乖離の解除には、弱い感覚が必要と言われています。
 弱い感覚とは、その対象者が受容できる範囲と言う意味ではないかと思います。

 学習者として経験できたことは非常に感慨深いことだと感じました。
 まだまだ、運転で学んだことはありますが、また気が向いて、思い浮かぶ時に書いていこうと思います。

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